「シナイ半島」と聞いて即座に答えられる方は少ないと思います。
車爆弾でエジプト軍兵士11人死亡 治安悪化のシナイ半島(MSN産経ニュース)の報道の中で、「エジプト北東部シナイ半島のアリーシュ近くで20日、エジプト軍兵士を狙ったとみられる自動車爆弾の爆発があり、国営テレビによると少なくとも兵士ら11人が死亡、35人が負傷した。」とありました。
争いが起こっている場所には何か歴史的な問題があるんじゃないか?と思って、エジプト北東部シナイ半島を調べました。
エジプトのシナイ半島およびアリーシの位置
シナイ半島の位置はこちら。
イスラエル・パレスチナとエジプトの境です。
アリーシュの位置はこちら。
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地中海に面しており、有名なガザ地区のごく近くに位置します。
エジプトのシナイ半島の立地は?
シナイ半島は西端にスエズ運河、北に地中海、南に紅海、東にアカバ湾のある位置に位置します。東端にはイスラエルとの国境、パレスチナ自治区ガザとの境界があります。
スエズ運河は地中海からインド洋に抜ける唯一のルートです。
周辺の歴史は?
古代~中世では、スエズ運河の元となる運河が時の支配者によって建設されていました。
そして、近代。1869年にスエズ運河が開通します。発端となった1846年のスエズ運河研究会から23年の月日が流れていました。
1875年からイギリスによる介入が始まりました。スエズ運河会社の筆頭株主になることから始まり、1882年のウラービー革命に乗じて軍隊を駐留させ、1936年のアングロエジプト条約(イギリス・エジプト同盟条約)などでもスエズ運河の管理権を主張し、スエズ運河に軍隊を駐留させ続けました。
長い間不当に居座り続けたイギリスに対し、1956年にエジプト首相が「スエズ運河を国有化しスエズ運河庁へ管理を移管させる宣言」を行いました。そのため、イギリスはフランス、イスラエルと組み、第二次中東戦争(スエズ危機)を起こしました。
戦闘ではイギリス側はエジプト軍を圧倒していました。
しかし、1956年11月4日、国連加盟国の大部分が、国連平和維持軍がシナイ半島に駐留しエジプトとイスラエルが双方軍を撤退させるまで委任統治を行うというピアソン案を支持し採択されました。そのことがきっかけで、イギリス側は停戦を受諾せざるをえませんでした。
それに納得いかなかったのか、イギリス側の1国であったイスラエルが1967年6月5日に「レッド・シート作戦」でエジプト・シリア・ヨルダン・イラクを奇襲攻撃し、第三次中東戦争が起こりました。この戦争は六日戦争とも呼ばれすぐ終わりました。この戦争の結果として、イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸地区の支配権を獲得してパレスチナを統一、シナイ半島とゴラン高原を軍事占領下に置きました。
しかし、1973年10月6日、今度はエジプト側が奇襲を行い、第四次中東戦争が起こりました。当日はユダヤ教の最も重要な休日であるヨム・キプル(贖罪日)であり、イスラエルの警戒が緩む日でもありました。
このことによって石油危機が起こりました。
アメリカ・ソ連の仲裁によって1973年10月22日に停戦が宣言されました。
この戦争で活躍した、後にエジプト首相となるホスニー・ムバーラク氏(2011年の革命で失脚)や後にイスラエルの首相となるアリエル・シャロン氏が印象的です。
そして、2011年のエジプト革命 。前述のムバラーク氏が市民の革命によって失脚しました。
まとめ
「エジプトのシナイ半島?どこにあるの?」という感じでしたが、今回調べてみて、地理的・政治的に非常に重要な半島であることがわかりました。
2011年のエジプト革命(1月25日革命)から新しい政権が生まれ、まだまだ混沌としているのでしょうか。
ニュースを注意深く読んで、もっと知りたいですね!